2011年3月4日(金)
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 戦時中、戦火を逃れて東京から山形県長井町(現在の長井市)に疎開した父母と妹と僕の一家4人は、母の実家に間借りしたり、農家の下屋に住んだあとに移り住んだのが、隣との境が新聞紙の壁だった棟割長屋でした。20歳代後半になって、なんとか長屋を抜け出したくている時に、渇チ藤組で5軒の新築したことを知り、無理を承知で「僕を貸家に住まわせていただけないでしょうか」とお願いしたら、加藤あき子さんが「あなたの給料はいくら?」「3万円です」「3万円では無理です。家賃は1万3千円です」・・・やっぱり駄目か、とがっかりしていたら、「給料が3万円なら8千円だったらなんとかやってゆけるでしょう。A棟が裏からも表からも出入りができて便利だからA棟に入りなさい」・・・それから2年後に、僕が文子さんと結婚できたのは、加藤あき子さんのおかげです。加藤あき子さんは僕の恩人,将来家を建てるときは渇チ藤組さんにお願いしようと思いました。

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